ESGとインタンジブルズ: 企業全体の価値創造を推進
- 環境・社会・ガバナンス(ESG)の要素を投資に積極的に統合する価値評価が責任投資の成功と信頼性に不可欠である点を説明します。ESG統合が投資収益に及ぼす影響力に焦点を当てた学術研究が増加していますが、それらを根拠として使用します 。1
- 本稿では、米国サステナビリティ会計基準審議会(SASB)が定義するマテリアルなESG要素が世界の製薬業界のPBRに好影響を与えているか示すため、実証研究を取り上げています。
- バランスシートの無形資産価値の上昇には、企業のESG活動推進が一翼を担っています。製薬会社の役員や取締役との交流により、その因果関係に関するさらなる知見を得ています。
- 本リサーチはエーザイ株式会社専務執行役チーフフィナンシャルオフィサーの柳良平氏の協力を得て実施・執筆したものです。柳氏は早稲田大学客員教授でもあり、ESGの財務的なマテリアリティの学術研究に従事しておられます。2
インタンジブルズの浮上
企業価値のバリュードライバーについて、静かな変革が進行しています。背景には、もっぱら産業のみに立脚していた世界経済の基盤が、それ以外のものにも徐々にシフトしている現実があります。現在、世界のGDPにおいてサービスと知識の重要性がかつてないほど高まっており、企業価値におけるインタンジブルズの重要性が上昇しています。
かつて企業価値の大部分を占めていた工場、機械、不動産などの有形資産は知的資本、ブランド価値、顧客ロイヤルティーなどに取って代わられています。下図が示すように、企業価値の構成は劇的に変化しています。
このトレンドは先進国市場に限った現象ではなく、急速に変化している中国をはじめとする新興国市場にも同様の動きが認められます。
ESG:インタンジブルズの解明
現代の会計基準はこうした変化に十分には追いついていません。企業が保有するインタンジブルズを完全には把握できていないのです。したがって、今やインタンジブルズが企業価値の最も重要な部分を占めているにもかかわらず、何がその価値創造を促しているのかは十分に理解されていないと思われます。
財務上重要なESGの課題をめぐる企業活動の状況から、この点を部分的に説明できるとする考え方に基づき、学術研究が進んでいます。
当社もこうした見方に賛同するもので、すでに、ESG要素分析をさまざまな資産クラスに関する投資リサーチに織り込んでいます。
本稿では、企業のESGパフォーマンスと株価純資産倍率(PBR:株価を1株当たりタンジブルズの簿価で割ったもの)の関係解明に焦点を当てています。
ここでは、株価からタンジブルズを控除した後の残余価値を1株当たりインタンジブルズの価値と考えます。
ESGプラクティスの改善に向けて企業が支払う費用を市場が認識している(すなわち、投資家が企業の決断を評価している)、ことを基本的前提としています。
本稿の共同執筆者で、日本の製薬会社であるエーザイの柳CFOはまずグローバル投資家を対象とする調査を実施しました。特筆すべき点として、回答者の78%は資本コストの減少あるいは将来の財務パフォーマンスの向上や安定化を通じ、ESGの価値を企業のPBRに織り込むべきと述べています。つまり、調査対象となった投資家の大半はESG要素が財務にとって重要であり、PBRはこれを測定するひとつの指標になり得ると考えているのです。
簿価を超える
国際統合報告評議会 (IIRC)はインタンジブルズの分析のためのフレームワークを開発しました。IIRC は以下の5つの非財務資本を挙げています。
- 知的資本 – 特許、知的財産など無形資産の研究開発の価値
- 人的資本 – 人材の能力と経験、ならびにイノベーションへの意欲
- 製造資本 – 製品生産やサービス提供のために使用される建物、機器、インフラ
- 社会関係資本 - 社会や多様なステークホルダーとの信頼関係
- 自然資本 – 事業活動を通じて企業に影響を及ぼす環境資源やプロセス
当社はこのフレームワークを用いて、過去8年間のエーザイのPBR推移を考察しました。純資産(会計上の簿価)は財務資本に関連し、同社PBRが1倍を超えた部分は非財務資本に関連しています。
これまで柳氏は共同執筆した多数の研究論文5において、日本企業を対象に5つの非財務資本とPBRの関係を調査し、その関係性を確立しました。IIRC-PBRモデルを使用した研究は、ESG活動の価値がPBRに反映されている可能性が高いことを示しています。
製薬業界の分析
本年、当社は本稿の著者2名が専門とする世界の製薬業界におけるPBRとESG活動の関係を考察してさらなる調査を進めました。
まず、マテリアルなESG要素の検討に専念しました。企業に影響を及ぼすとみられるサステナビリティとガバナンスの問題は幅広く存在しますが、財務上の重要性を有するのはいくつかのサブセットであると考えています。財務上重要なESG要素を特定するため、米国サステナビリティ会計基準審議会(SASB)のバイオテック・医薬品セクターに関する業界マテリアリティマップを使用しました。Grewal et al. が2017年に行った米国企業を対象とした調査は、SASB マテリアリティマップに準じたESG重要業績評価指標(KPI)は財務的な重要性が低いESG KPIよりも株価を押し上げたことを示しています 。6
下表はSASBが製薬会社にとって重要と考える項目を列挙したものです。
次に、収集した関連データをSASBが定義する財務的にマテリアルな8つのESG要素のそれぞれに配分しました。ESGデータはMSCI ESG 、ESGおよびコーポレート・ガバナンスの調査会社であるSustainalyticsとVigeo、財務・企業データはブルームバーグのものを使用しました。
「この調査によってSASBが特定した業種特有のESG項目の財務的なマテリアリティを裏付けるエビデンスを提示することができた。特に明らかになったのは、SASB基準を活用することにより企業が属する業界における最も関連性のあるESG問題に焦点をあてることができるようになった点である。」 - SASB
調査対象はESGデータにアクセスできた大手製薬会社59社としました。これらは、時価総額でみた業界の上位59社にほぼ相当します。総じて、1社につき34のESGデータ項目を得られました。回帰分析に2ファクターモデルを使用し、PBRと各ESG要素の関係に注目しました。回帰分析では、PBRとの関係性が強い株主資本利益率(ROE)を調整しています。
下表は、ESG要素とPBRの間に正の相関関係が認められる事例を示したものです。PBRと比較的強い相関関係がある7つのESG要素が明らかになりました。
最も顕著な結果を示したのはヘルスケアへのアクセス(使用データはMSCI ESGインデックス)です。この数値は低所得国への医薬品提供活動の質を表しています。
因果関係のケーススタディ
分析に基づき、因果関係が存在するのか考察しました。エーザイは、長期的に見て医薬品アクセス強化に向けた費用は企業価値の上昇という目的に明らかに結びついていると強調しています。
「エーザイは2020年までに、WHO(世界保健機関)とともに、新興諸国向けに『顧みられない熱帯病』と呼ばれているリンパ系フィラリア症の治療薬(DEC)22億錠を無償提供することを共同発表しました」と柳CFOは述べ、「医療品アクセスを通じた社会貢献は寄付でも赤字プロジェクトでもなく、 投資家にも受け入れられる超長期投資なのです」と続けました。
「当初、このプロジェクトは赤字を出し、短期的には利益の足枷になると見られていました。しかし超長期的に見ると、様々な要因(新興国での事業が生み出すブランド価値、設備稼働率の改善による生産性向上、インド工場の従業員の能力と意欲向上など)によりNPV(正味現在価値)はプラスになると見込まれています。実際、2018年にはこのプロジェクトの損益は採算ラインに乗りました。当社のIIRC-PBRモデルが示すように、ESGを通じた医薬品アクセスによる価値創造が実現したわけです」
エンゲージメントの役割
本研究は当社の投資分析において、主要なESG項目に対応することの重要性に関する信念を裏付けるものとなっています。また、企業の株式や債券に投資した後、投資先企業とのエンゲージメントにおいて推進・注力すべき要素も明らかにしています。
当社は様々な課題について製薬会社に幅広くエンゲージメントを行っています。2019 年に入ってからは8、医薬品アクセス、事業活動、製品安全性、コーポレート・ガバナンスなどのマテリアルなESGテーマについて、世界有数の製薬会社17社と接触しました。これらのテーマの多くはSASBの製薬業界向けマテリアリティマップと一致しています。またヘルスケア業界の多くの企業にも共通しており、当社の上場株式、社債、インパクト・プライベート・エクイティ投資チームは定期的に会合を開いて、様々な対話の中でESG問題を取り上げています。
特に、本研究が業界におけるインタンジブル価値創出の推進力のひとつとして注目しているヘルスケアへのアクセス問題に関して、当社はエンゲージメントの主導的役割を担っています。一例として、アセット・マネジメント業界の代表として唯一、医薬品アクセスインデックスの専門審査委員会(the Access to Medicine Index’s Expert Committee)の一員となっています9。このインデックスは低所得国における医薬品アクセス推進を実践するグローバルな大手製薬会社20社を、2年ごとにランク付けするものです。
同委員会はWHO、製薬業界、非政府組織、学界などの外部専門家で構成され、メンバー全員が医薬品アクセスの課題に積極的に取り組んでいます。またインデックスの調査チームに戦略的ガイダンスを提供し、製薬会社が医薬品アクセスの改善に向けて採用できる、意欲的で実行可能なアクションを特定しています。また当社は、製薬会社との共同的エンゲージメントを主導しています。
これは国連の持続可能な開発目標3「すべての人に健康と福祉を」の達成に貢献する重要な方法であると考えます。また、今回の研究でこれが製薬会社の企業価値にも貢献するというさらなる確証を得ました。
結論および次なるステップ
本稿は企業の意思決定者ならびに投資家の皆さんが、マテリアルなESG要素の重要性についてエビデンスを深めることを目的にしています。製薬業界を例にとり、企業価値の創出あるいは大いなる痛手をもたらす数多くのESG活動を見てきました。リサーチの手法にまだ改善の余地があることは承知していますが、この分野に関する今後の研究に期待したいと思います。
結論として、本調査結果により製薬会社に対しては特定のESG分野に支出する根拠が示され、投資家に対しては投資マネジメントおよびスチュワードシップ活動においてESG統合を推進すべき根拠が示されました。
本研究はSASBのマテリアリティマップの有効性も示しています。SASBは企業のESG報告のベンチマークとしての価値を高めつつあり、多数の主要投資家から支持を得ています。アクサ・インベストメント・マネージャーズはSASBのアプローチを支持しており、SASBの投資諮問委員会のメンバーにもなっています。諮問委員会への参加、調査活動、企業へのエンゲージメントを通じて、当社がSASBのレポーティング・フレームワークの採用を推進できることを確信しています。
付録
本研究は回帰分析に以下の2ファクターモデルを使用しています。
従属変数は各社のPBRです。2つの独立変数は、マテリアルなESG要素(34種類からひとつ)と株主資本利益率(ROE)です。PBRはROEレベルに大きく影響を受けるため、回帰分析はROEの影響を調整したうえで、PBRに対し説明性を持つマテリアルなESG要素を特定するように設計されています。
1 詳細はアクサ・インベストメント・マネージャーズの 「ESG and financial returns – The academic perspective」(2019年7 月)を参照。
2 高月 擁と柳良平氏に加え、アクサ・インベストメント・マネージャーズの責任投資チームのTheo Kotula、Danika Matheron、Jules Arnaudが本リサーチに多大に寄与した。
3 オーシャントモ、オーシャントモによるインタンジブルズの市場価値に関する研究(2017年9月)。
4 エーザイのデータ
5 柳良平および伊藤桂一 (2019):「ROESGモデルと自然資本のエビデンス」、月間資本市場(2019年9月号)
柳良平および吉野貴晶(2017):「人的資本・知的資本と企業価値(PBR)の関係性の考察」、月間資本市場(2017年10月号)
柳良平(2018): 「Value proposition of integrated reporting and the price-book ratio model: Evidence from Japan(表題仮訳:総合報告書の価値提案とPBRモデル:日本企業のエビデンス)」、IIRC
6 Grewal((2017)):「Material Sustainability Information and Stock Price Informativeness(表題仮訳:マテリアルなサステナビリティ情報と株価情報)」、ハーバードビジネススクール ワーキングペーパー
7 2019年2月15日時点のデータを利用した調査。出所:AXA IM
8 AXA IMの製薬会社対するエンゲージメント(2019年1月1日~2019年10月31日)
9 高月 擁、医薬品アクセスインデックスの2019年専門審査委員会のメンバー
ご留意事項
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